3.吉原の仕組み


(1)吉原の概略

 吉原で遊ぼうという客は、浅草方面から日本堤を通り、吉原の入り口である「五十間道」から大門へと向かう。五十間道は日本堤から大門の中が見え
ないように「くの字」に折れ曲がっている。道の両側には茶屋が並んでおり、ここで吉原の案内などを行っていた。
 大門を入るとすぐ右手に「四郎兵衛会所」という番所があった。郭内の秩序を維持する吉原独自の警察だが、実際には遊女の脱走監視が主な役割だ
った。向かい側には町奉行所から派遣されてきた岡っ引きが詰める番所もあった。
 左右の番所をはさんで大通りが真っ直ぐに延びており、これが「仲之町」である。
 イメージを掴んでいただくため、概略を[十七世紀後期の吉原の略図]に示す。
 「どうだい八つぁん、今夜は景気づけにわぁっと、『仲』へでも繰りだそうじゃねえか」
というように、落語の中でも吉原を表す通称として「仲」という言葉がよく出てくるが、これはこの仲之町から来ている。
 仲之町をはさんだ両側には引手茶屋が軒を連ねている。この茶屋は値段や遊女の取り決めをするところで、交渉が成立すれば登楼ということになる。
二階に通されて客はそこで遊女が来るのを待つ。部屋待ちの遊女は茶屋から呼び出しを受けると客に会いに行く。花魁が来るとそこで酒席が開かれ、
宴が終われば一緒に花魁の部屋(見世)へ行く。
 ただし、引手茶屋を利用するのは金に余裕のある上級の客がやることで、ほとんどの客は大通りから横町に入り、手頃な遊女を選ぶ。横町には「張見
世」と呼ばれる格子のある店が並んでおり、客は外から遊女を選び、中に入るのである。
 さらに銭のない客は、おはぐろどぶ沿いにある二つの河岸に行く。「浄念河岸」と「羅生門河岸」である。ここに並んでいるのは、吉原でも最も安い遊女
のいる見世である。これらの見世は時間を区切って銭で遊ぶことが出来たので「切見世」あるいは「銭見世」とも呼ばれた。
 大門が開くのは卯の刻(午後6時)で、閉まるのは亥の刻(午後10時)である。張見世は正午から午後2時頃まで営業し、午後4時で一旦閉める。日没
後再び見世を開き、大門が閉まった後も午前0時頃まで営業していた。午前2時「大引け」の拍子木が打ち鳴らされ、賑わっていた吉原もこれを境に静
まるのである。


(2)見世のランク

 見世のランクは置いている遊女の値段や評判で決まった。
 最上級クラスの見世は「大見世」といい、浮世絵に描かれるような高級な花魁がいた。次が「中見世」と呼ばれるクラスで、規模も遊女の質も大見世よ
り一段落ちる。
 さらに、一分女郎(料金が昼一分、夜一分の遊女)だけがいる見世を「大町小見世」、二朱女郎(料金が昼二朱、夜二朱の遊女)が中心の見世を「小見
世」と呼んだ。
 この他に、前述の「切見世(銭見世)」がある。


(3)遊女のランク

 初期の吉原(元吉原)時代、遊女は「太夫」「格子」「端」の三ランクに分かれていた。
 太夫と呼ばれるには、姿形が美しく、かつ教養も備えていなくてはならなかった。歌舞音曲はもちろんのこと、和歌朗詠、囲碁、茶道、華道に通じてお
り、たとえ大名クラスの客の前に出ても恥ずかしくないだけの品性や才知もあったのである。
 その下の格子というランクは、文字通り格子のある見世に並び「格子女郎」と呼ばれた。この時期、太夫・格子までを一般に「花魁」と呼んだ。
 端は小見世以下の遊女たちの総称である。江戸市中で取り締まられ吉原送りになった湯女や遊女が増えてくると、端女郎は、「局」「端」「切見世」に細
分化され、元吉原末期には都合五ランクに分かれた。
 新吉原になって遊女の数は増えたものの、およそ70名ほどいた太夫が半数以下に減ってしまった。最大の顧客層であった地方の大名の出入りが、
幕府の「金減らし」政策等により減ってしまったことが大きな要因となっている。
 太夫は吉原の看板であるため、みっともない格好はできなかった。前述の通り教養も必要であり、専属の使用人も雇わねばならず、とにかく金がかか
る。いい金主がついていなくては、なかなか維持はできなかったのである。
 太夫の数はその後もどんどん減っていき、宝暦二年(1752年)ついに一人になり、その太夫も8年後に引退したため、吉原から太夫が消えた。以降、
「花魁」という呼び名からは上級の遊女を示す意味合いが薄れていき、幕末には単に遊女全体をさす呼び名になる。
 その他の遊女たちの名称も時代とともに変化していった。以下に遊女のランクと名称の変遷を示す。

元吉原初期
元吉原末期
新吉原初期
新吉原中期
以 降
ランク
太夫
太夫
太夫
太夫
格子
格子
格子
格子
呼出
昼三
散茶
散茶
附廻
梅茶
座敷持
部屋持
切見世
切見世
切見世
切見世



(4)吉原で働く人々

 遊女という「女」が主役の吉原でも、それを支えているのは「男」たちである。経営者である楼主の下に、様々な役割を持った男たちがいた。
 男たちは一般的に「若い者」あるいは「若い衆(し)」と呼ばれていた。歳をとっても若い者である。彼らは見世の裏方で、楼主に一切を任された番頭の
命令で動き回る。

【妓夫】
 「ぎう」とも「牛太郎」とも呼ばれる、客の呼び込み役である。見世の入り口に「ぎう台」という番台のようなものが設けられ、そこに座って客を呼び込ん
だ。
 彼ら牛太郎には、金が足りない客についていって集金する役目もあった。この役目を「付き馬」(付け馬)あるいは単に「馬」といった。
 『夕べ格子で 勧めた牛が 今朝はのこのこ 馬となる』
 落語の「付き馬」のまくらにも出てくるお馴染みの都々逸である。牛が馬になるといって江戸っ子は喜んだ。
 「ぎう(牛)」については、「鼻で回る=祝儀(ハナ)で働き回る」の洒落から来たという説もあり、さらには、中国の花街で牛車に乗ってくる遊客を引き付
けるため、牛の好物の塩を店頭に置いたという、盛り塩からの起源という説もある。

【見世番】
 見世の中にいて見世内の雑用を行う。呼び出しがかかった遊女の道中に付き添い、提灯や傘を持つ役目もあった。

【二階番】
 妓楼の二階を整理整頓する役目である。二階に詰めていて、各部屋から呼ばれたりした場合、その部屋に行き用件を聞くなどという雑用もする。

【不寝番】
 火の用心など、夜中の見回りのほか、もめ事の仲裁などをする・

【料理番】
 見世の一階の奥にある厨房で客や従業員の食事を担当する。

【風呂番】
 風呂を沸かしたり掃除をする役目である。

【二階廻】
 夜、二階の各部屋を廻って行灯の油を足していく役目。「油差し」とも呼ばれる。部屋に入るときはいきなり入るので、客からは嫌がられた。

【掛廻】
 見世のツケの集金をする役目である。ただし、ツケは誰でもきくというものではなく、常連や名の知れた商家、武家に限られた。

【物書】
 番頭の側に座っていて、客の名前を書いたり、証文を作ったりする役目で、商家なら手代のような仕事をする。

【中郎】
 見世の雑役夫である。見世前の掃除、一階の掃除、ゴミの廃棄など、一切の雑役を担当する。

 以上が見世の男たち(若い者)に与えられた仕事だが、他にも女に与えられた「遣手」という役目があった。

【遣手】
 客は遊女を決めて見世に上がると、二階の引付部屋に通される。ここで登場するのが遣手である。遣手は元遊女。だいたい30歳くらいを過ぎた、当
時でいう大年増なので「遣手婆」ともいわれる。
 引付で客は遣手と交渉する。遊女の値段から、酒や食べ物、芸者衆を呼ぶかどうか、何時までいるつもりなのかなどをやり取りする。マケたり、ときに
はふっかけたり、見世を儲けさせるために上手に値段を交渉する。
 客が指名した遊女ではなく、違う遊女を勧めることもある。あまり客のつかない遊女をうまく回すのである。したがって遣手は遊女を含めて遊郭のすべ
てに通じていなければならない。基本的な遊女の値段は決まっているものの、その他のお金は遣手の胸先三寸でどうにでもなった。
 遣手は吉原の主人公ではないものの、経営者から見れば重要な任務を帯びた役目であり、見世の繁盛は遣手次第という面もあったのである。


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