東欧土産話(4)
22名の行進は、ヴルダヴァ川左岸の中心、マーラストラナ広場から、旧市庁舎の天文時計の前までやってきました。
午後3時の鐘を聞こうと大勢の人が集まって来ました。15世紀に作られ、完成後、動かなくなり、1948年に電動装置が付く
まで約4世紀間、微動だにしなかったそうで、リルケの書いた詩の中に
でてくるプラハの天文時計は、動かぬ、時を指さぬ時計だったそうです。
やがて3時、仕掛け時計が、窓を開き、骸骨人形がひもを引いて鐘が
地味な音で鳴り始め、あーと思う間に終わりました。15世紀の音でした。
この広場で目についたのは、モーツァルトの扮装をして、プラカードを持ち、コンサートのチケットを売る青年達の姿です。でも何故か写真を撮らせて呉れません。買いもしないのに写真を撮られるのがイヤなのかなァ。
それにしても、プラハもブダペストもモーツァルトのコンサートのビラが至る所に氾濫しておりました。
丁度、結婚式を終えたカップルが、市庁舎から出て参りました。親戚
友人達の祝福を受けて仕合わせそうです。
此処で又、**時まで解散。プラハの春で有名なヴァーツラフ広場へ行き
たい人は、ガイドさんが連れていって下さるとのことで、殆どの方が一緒に
行進再開です。
4世紀には、ヴァーツラフ広場で馬や穀類の取引があったそうです。
20世紀に入って1948年に共産党を支持する市民が集い、声明文
がよみあげられ、1968年には、ワルシャワ条約軍の戦車が、ここに
侵攻、社会主義「プラハの春」は制圧され、翌年、これに抗議する学生、
ヤン・パラフは、聖ヴァーツラフ像の前で自殺した・・・
1989年のビロード革命では、何十万もの市民が、民主化を要求する
デモ行進を行い、
ヴァーツラフ・ハヴェルやドプチェクが建物のバルコニ
ーから演説した・・とガイドブックに書いてあります。
「プラハの春」という言葉は何度も聞いておりましたが、戦後五十余年
平和な日本に満ち足りて暮らして
外国の国家間の事情にいまひとつ
ピンとこないものがありました。
ヴァーツラフ広場は、天文時計のある所からさほど遠くはありません。
賑やかな通りを10分くらい歩きました。
広い広い十字路がヴァーツラフ広場でした。
私が今立っている平和そのもののこの広場に武力で、社会主義を
ねじ伏せようと侵攻してきた大きな不気味な戦車の黒い影を想像
しました。
この広場を少し進むと、火薬塔があり、また
大きなマーケットもあると聞きましたが、Uターンしてぶらぶら歩きを致しました。
帰り道にはずらーっと露天市が並んでいます。お祭りの出店といった風景です。民芸品から衣類、日用品、食料様々なものが並ぶ中に、珍しや、日本のミニ盆栽も売られておりました。
今日はよく歩きました。一万歩も歩いたように思われます。
一旦ホテルへ帰り、一息入れて、午後7時に夕食です。
まだまだ明るいプラハです。
今夜は、プラハで一番古いビア・レストラン、「ウ・フレク」(と聞こえました。プラハでは、「ウ」は、定冠詞なのでしょうか。よく U・〜とあります。)で、黒ビールが有名との事。楽しみです。
また穴蔵にもぐりこみですが、この穴蔵は広々して、テラス風に2階
(1かい?)もあり、ウイーンのホイリゲに良く似た良いムードです。
3人の楽師がトランペット、アコーディオンと、名前を知らない打楽器
(縦長で、一番下にシンバル、その上に太鼓様のもの、その上に筒状
の金物・こすって音をだす?その上を握ってまたその上に、ジャラジャラ
音を出す金物、天辺におどけた顔のピエロが笑っています。)で明るい
音楽を演奏し始めました。
メニューはまたまた蒸しパン添え牛肉グヤーシュ、生野菜のサラダ、デザートにアップルケーキ、コーヒーです。グヤーシュは、昼に食べたものより味がまろやかで、とても美味しかっ
のですが牛肉は少し堅かった。
アップルケーキはやはり温かいもので、冷たいケーキに馴染んでいるものには、手ずくりの素朴さを感じます。
期待の黒ビールが運ばれてきました。少し甘口でアルコール度は低いように感じました。複雑な味です。
これは食事に含まれるそうで、(酒代なし)
一層美味しく感じました。
我々の後ろのテーブルに若い集団が賑やかです。男女入り交じり、同窓会的雰囲気で、そのうちに、一斉にワッショワッショ的な掛け声に、盛り上がり賑やかな楽しい雰囲気となりました。ビアレストランの楽しさは何処も同じですね。
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